ナツからきた 指定型バトン『メディアアート』
ナツのリクエストでは、『(美術寄りの視点)』だそうですが、相当難しいリクです。
いつもだべっていることを越えないとは思うけど、なんとか文章になるようにまとめてみた。
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◆最近思う『メディアアート』
もう、そういうカテゴリはない。
(コンピュータ)メディアアートならば、センスとお金のある大企業が引き継いでくれると思う。ただし、エンタテインメントとしての機能を強化した形で。
"個人"で追求可能な(コンピュータ)メディアアートとしては、思想/哲学的な位相ではまだ生き残っているし、考えるべき事はどっさり残っている。
しかし、装置としてビビッドさのあるものは減っていくだろう。
それは、見る側(観客)のデジタルメディアに対する想像力と経験値の上昇によるもの。簡単なデバイスで「わあ」と驚いてくれる時代は過ぎたのだ(冷や汗
「メディアアート」が、情報通信の"メディア"を使った表現から、情報に相対する一個人(作家)の巫女的な意味での"メディア"に変わりつつあるという予感。
まさしく「アート」が"技術"から"美術"に寄っていく感じでしょうか。
情報という概念について考えれば考えるほど、"世界を作っているのは誰?"的な、ある種宗教がひきうけている概念と向かい合わざるを得なくなる。(マトリックスみたいなw
宗教を持っていれば、それに沿って説明すれば良いんだろうけど、残念ながら私には特定の宗教が無いので、自分で納得のいく答えを探すには、自分なりの方法で取り組まなければいけない。I make My own 宗教 w
情報の概念を知ると、いったん自分の存在も周囲のものもひとも世界全部が一緒くたになって融ける。(ex.アフォーダンス)
しかし、どれだけ頭で「世界の全ては情報の差異で、、、」などと考えていても、私たちには「いま・ここ」のアクチュアリティを感じる機能がある。
"わたくし"というものを再度形作るには、わき上がる"passion":無償で浪費される、力の感覚 を感じることを強化すれば、いいのだと思う。
その時、コミュニケーションにおける言語ゲームを越えた、あるアクチュアリティを持った発語(ex.感嘆符「おおおお!」「私の右腕に力があふれる」)を生み出す舞台装置を設定するのが巫女的"メディアアート"のイメージ。
別に、本当に宗教ではないんだけど、ある種宗教における福音のような、現れ(エピファニー)のような、そういう体験を提供するためのセッティングをするには、インタラクティブな舞台装置はうってつけだと思う。
イコンをたくさん含んだ絵画よりも、鑑賞者がその場に現れを発見するように導くようなインタラクションを持ったイメージのほうが、よりフィットする気がする。
しかしそれが、「コンピュータを使わなければできないかというと、そうでもない」という所に、私の今思うメディアアートというカテゴリへの思いが現れるというものです。
そんな近況。
◆直感的『メディアアート』
糸電話。
テレパシー。
メディアアートはコミュニケーションの可能性を模索する。
◆この『メディアアート』には感動!!!!
google earth
◆好きな『メディアアート』
AIBO
◆こんな『メディアアート』は嫌だ!
「なんでもメディアアートじゃん」って言っちゃう事
◆この世に『メディアアート』がなかったら…
デジタルにまつわる思考方法に対してアプローチする、
別の興味深い作品群がでてくると思う。
個人的には、めちゃめちゃ困らないけど、寂しい気持ちがするかもしれないなぁ。