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心にうつるよしなしごと(What about Computer Media Art? :草稿)

私は母校に何を期待しているのだろう? そう、いつだってヘンなものが見たいと思っている。
閉塞した感のある"コンピュータ・メディア アート"をブレイクスルーする、ぶっとんだアイデアをいつも夢想してしまう。


だけどその心は満たされない。もちろんその感覚は、今ものをつくって展示している彼等には何も関係はない、まさに私の問題だ。
『じゃあ お前がそのブレイクスルーをやればいい』と言われたら、何も言えない。(できたら、とっくに、やってるよ)
でも、私はそれを助けるための道案内をする事が出来るような気がしている。言葉によって、指示によって。
歴史をまとめることによって。プリンシプルな構造を教育する仕組みを考えることによって。いつかだれかが。


  それは他人のため?自分のため?



+アートという言葉に限って考えると+
パーソナルコンピュータが少人数の集団(もしくは個人)のレベルで入手できる状況になるにつれ、早い段階で環境や設備にありつけた限られた人の間で実験的に行われた行為は『前衛』というラベリングでまずその歴史に残る。
しかしまだそれには"コンピュータ・メディア アート"というラベルは貼られていない。


その後は、メディアの新しい使い方の発見が続く。ハック・ブリコラージュ・ドッキリいたずらなんでもありになっていく。
さらには、既存ジャンルとの組み合せによる領域拡張もある。("写真""映像""立体""インスタレーション"+コンピュータ・メディア)
それとあわせて、マシンスペックの向上や値段が下がっていくこと、また、企業による新メディアの開発スピードの飛躍的向上。


その他社会的な状況も含めた(要リサーチ)様々な要素との相互効果によって"コンピュータ・メディア アート"は一気に広がっていく。それによってまとめきれないほどに領域をまたぎ始める。(領域越境はコンピュータの本分でもある。)


爆発的拡張の例)
 マシンスペック限界まで追い込んでまだ見た事の無い絵(映像や写真)をつくりこむ
 プログラムの書けるエンジニアによる前衛的ふるまい・いたずら・おちょくり
 プログラムもプロダクトデザインもできるマルチ人間によるデジタルガジェット
 立体造形物とコンピュータの計算能力との組み合せによる、可動/キネティックなオブジェ
 コンピュータ的発想(Digit、アルゴリズムなど)をアナロジカルに使い、それを肯定/否定する哲学的ふるまい
 インタネットの構造を利用したささやかな遊び、強い結びつき/緩やかな関係性の視覚化、配信
などなどなどなど、数えきれないほどある。
さらにそのたとえ話のモチーフを入れかえた、無数のバリエーション… 



領域越境は快楽的だ。
しかし"コンピュータ・メディア アート"というラベルがその輝くような抗いがたい魅力を放っていたのは、ほんの短い期間であった。
爆発的に拡散した後、越境された領域達は自らの範囲を拡張してそれらはみだしものを再度取り込むことにより、無数に試されていった発見達は、少し形の変化した既存のジャンルに再分配され、既存の各ジャンルからの"はみだしもの"がいっきに溢れ出てぶっとんだものが並んでいるという状況は終焉していく。ほんの十数年の間に起こった出来事。


再分配 例) 
 high quality 3DCG 映画
 ショウや展示会などのエンタメ・広告業界の使うキャッチーな視覚的仕掛け
 遠隔地のコミュニケーションのためのインタフェースデザインのバリエーション
 生活に必要な(もしくは不必要な)情報表示のためのインタネット接続型スタンドアロン・プロダクト
 舞台演出装置:音や照明、セット
 コンテンポラリアートの一ジャンル "写真""映像""立体""インスタレーション"など
など、これも無数にある、さらに、その形態は、もの(有形)・サービス(無形)はどちらもありうる。



あの喧噪は、コンピュータ・メディア・アートにおける『美学』や『お約束』の独自性や意義が充分検証できないほど短い期間だった。当時を同時代的に体験していない人には説明のつかないようなあの喧噪!まるで原因不明の高熱のように!
しかも、その喧噪について心を向ける人の人口比率の極小さ…そう、業界は狭い。だれがまとめうるというのだろう、この短い歴史を。


追記
そして、大量の砂のなかから振り分けられて、それでもまだ残っている砂金のような、本体自身に輝きを秘めたものを見落とさないことの難しさ。この砂金を集めれば、小瓶ひとつにくらいはなるかもしれない。そこではじめて、「What about Computer Media Art?」という問いかけをする事ができるようになるのだろう。


砂金を見逃さない目と注意力をわすれないでいきたいと思っている。