mixiのペレックコニュにていろいろ書いている。いろいろ参照したいので転記する。掲載している文章からいじってます。
個人的雑観ですが、
クノーは物語の構造自体にインタラクティビティを志向した。
ペレックは作家が残した痕跡にいかに空間的な構造を持たせ、読者にインタラクティブに読ませるかを志向した。
という印象を受けています。
三次元を越える方法(?のようなもの)を考えていて、それをクノーは点の動的なダイナミクスで、ペレックは線の集積とその痕跡を読ませることで目指している。といった感じでしょうか。
その意味で、ペレックの方がより読者に深い観想を要求しており、しかも作家の独自性も持っているのかもしれません。
ペレックにはまってしまうと抜け出せない理由はそこにあったりして。。。
私も本格的にペレック研究をしたくなってきました。(まずはフランス語から、、?!)
いつもわかりにくい文章ですみません。
まだ自分の中でも抽象的な感想しか持てていないのですが、なんとか言語化したいので、おつきあい下さい。
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上記の文章は、クノーの『文体練習』とペレックの『人生 使用法』(もしくは『考える/分類する』)を比較して考えていました。
クノーもペレックも、「方法が全てだ」ということを確信していたのは明らかではないか、と思います。
クノーは作品を完璧な「方法のみの構造」として扱おうとしたのですが、ペレックはその先を見据えていたのではないかと思うのです。
クノーの「文体練習」は、言語ゲームであり、それ以上でもそれ以下でもない「おもしろいゲームだ!」という感動があります。私は、それはいずれ行き詰まるだろうと思います。
ペレックの『人生 使用法』は、ゲームをやって、そのゲームは何か、そしてそのルールはどんなものかを明かさずに、その経過を痕跡として文章で報告する、ということをやっていたのではないか。
そうすることで、読者が方法から逸脱して何か新しいものを表出させるというブレイクスルーを予感していたのではないかと思うのです。
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作者には容易に操作できない、読者の「言語分節化の作用」の中にしか文学の住むところは無い。(と言い切ったら無茶でしょうか?)
としたら、作者に出来る事は、読者の「読み」の多様性を保存しつつ、いかにある程度作為的にコントロールできるか、この二点のバランス取りに尽きると思うのです。
「方法のみを使い、方法を越える。」 詭弁のようですが。。。
方法がインタラクティブなのではなく、方法を読みとく読者がインタラクティブなのですよね。
そのためには、三次元中の点と点を結ばせるよりも、三次元の中の線をたどらせて時間という次元を加えた方が分節化の遅延というか、余白のようなもの(白紙のページ!)ができ、方法を越える可能性が出来るのではないかと思うのです。
私がペレックに惹かれるのはその試みに強い可能性を感じるからです。