酔った勢いでTwitterでボヤいてるうちに筆が滑ってる。ちょっとだけ編集して載せとく。
結局全ては、"品質の低下"を知りつつ、それを容認している事が問題なんだと思った。
ここでいう"品質の低下"とは、誰も来ない深夜のコンビニに例えられる。『24時間営業』というフレームが先にあるから、そこに居るスタッフを確保しないといけない。儲からないから時給が安い。安い時給でもいいから欲しいひとがスタッフになる。安いから責任感が湧かない。品質下がる。
本末転倒な話。
今の社会は、消費の欲望を煽り過ぎだ。
コンテンツ産業も同じループにハマっている気がする。
その界隈に関わっている(気がする)私にとって、コンテンツの品質という問題はここ最近の大きな懸案事項になっている。
提供できるサービスやコンテンツのリミットは常にある。
{(1人ができる最大仕事量)+(道具や方法などの力)}×(従事する人の絶対数)
しかし、"欲望の火"を消さないために、どんどんと目くらましのように新しい何かを提供し続けないといけないフレームに縛られている。(中略)→品質が下がる。
当然のなりゆき。
*
なるべく省エネをしつつ、たくさん作るために、『ちょっとづつ見た目を入れ替えて消費させ続ける』というビジネスモデルがあったが、もう破綻寸前だ(もしくはすでに破綻している)。
低品質なコンテンツやサービスの過剰提供をだれがイケイケドンドンと押し進めているんだろうか。わたしには皆目検討がつかない。
コンビニのたとえに戻って、私の考えている事を言えば、『深夜の客入りがほぼないのであれば、閉めてしまえば良い。』ということだ。
いくら24時間オープンと銘打っていようと閉めれば良い。
大義名分や対面、メンツによって失っている人的/文化的/金銭的価値がどれくらいあるかと想像すると冷汗が出る。
適度に負けよ。負けを許容/受容できない文化は息苦しい。見苦しくもある。
これはまぁ、理想論として…。
何故私が品質という言葉についてこだわるのかと言えば、もっと目先の事象について具体的にひとつ恐れている事があるからなのだ。
品質の高いものを見た事が無ければ、高い品質のものを選ぶ事もできないし、作る事もできない。
例えば現在テレビやインターネットなどで見る事の出来る映像コンテンツ(特に無料のもの)の品質というのは、ピンからキリまであると思う。
もちろんそれは当然なのだけれども、それを越えて『本当に高い品質もの』は存在していない気がする。
そういう意味で言えば、お金をかけず簡単にコンテンツにアクセスできる今、『本当に高い品質もの』に触れる機会が激減するということだ。
それにまつわる事象として、『職人』と言う言葉の使われ方がチープになっている事を私は危惧する。本当の職人は、そんな所にはいない。
職人とは、それに対して金銭(もしくは対価物)を得るという状況ではじめて職人足りうる。
もうけられるのが職人だ、という意味ではなく、金銭をうけとることによって責任をひきうけているという事が大事なのだ。
作ったものとお金を払ってくれた相手に対して責任をひきうけないかぎり、品質のある一線を越えられない。
たとえば、うたってみたり、おどってみたりする。歌詞をタイミングよく表示させる。
それは行為としてなんら悪くないし否定しないけれど、その行為は職人としての行為じゃない。消費の行為の一形態なのだ。
品質低下のバッド・スパイラル。
これは大問題だ。
今、この過剰提供されている中程度の品質のコンテンツを浴びる様に消費しつくした世代が、『作る人』側にまわる日はそんなに遠くない。
その時に、品質はもう一段階下がるだろう。品質の高いものを見た事が無ければ、高い品質のものを選ぶ事もできないし、作る事もできないからだ。
そして、一度劣化した品質はもとに戻る事が難しい。圧縮したjpgデータは元に戻らないのと同じ様に…。
これは悲劇だ。
最近、アニメの作画にうるさい人がたくさんいるのは、無意識化でこういう事態を危惧しているからなんだろう。
☆
お願いだから、ちょっとでも品質の善し悪しが分かる人はイケイケドンドンを止めて欲しい。
思慮のないチープな模倣技法で、劣化したコンテンツを過剰提供するビジネスモデルを止めて欲しい。
私ひとりが深夜グチグチ思ってたって動きようのない問題を書き出してしまうことを許して欲しい。
本当にものの善し悪しが分かる人が地下に潜って秘密サロンを作るのは、大きな目で見ると文化にとっては損失だ。
どうか地下に潜らないで、「これは良い」「これは悪い」と公の場で発言し、批評してほしい。
本当にものの善し悪しが分かるというのは一種の職能であるし、それに対して対価が発生するべきだ。
でも、良いものがないかぎり、その職能はいかされることがない。これも品質低下のバッド・スパイラルから生じる問題なのだ。
だから地下に潜っては行けない。二度と地上に出られなくなる。
圧倒的に良いもの、品質の高いもの、美しいものは、誰がどう見たって、良くって品質高くって美しく感じる事が出来るはずなのだ。
私はそれを信じている。
おねがいだから、この世界に、陽の光を浴びた圧倒的に良いもの・品質の高いもの・美しいものが到来するようになってほしい。
わたしは、そのためにならば、祈りたいと思う。心から。