http://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/t_0701/top.html
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カタログ
- 作者: ビル・ヴィオラ
- 出版社/メーカー: 淡交社
- 発売日: 2006/10/01
- メディア: 大型本
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森美術館でやっていた作品すべてが来た訳ではなかったことが残念。せっかくなら森に行っておけば良かった。
という反省も、今となっては間に合わないので、今日見たものが全てだと思って、メモをしてみようと思う。
今日見たもの
1. はつゆめ
1981年 ビデオテープ、カラー、ステレオ 56分
2. グリーティング / あいさつ
1995年 ビデオ・サウンド・インスタレーション
3. クロッシング
1996年 ビデオ・サウンド・インスタレーション
4. 驚く者の五重奏
2000年 ビデオ、暗室の壁に設置されたスクリーンに背面投影
5. キャサリンの部屋
2001年 ビデオ、液晶モニター5面、壁に設置
6. 四人の手
2001年 白黒ビデオ、液晶モニター4面、棚に設置
7. サレンダー / 沈潜
2001年 ビデオ、プラズマ・モニター2面、縦長に壁に設置
8. オブザーヴァンス / 見つめる
2002年 ハイビジョン・ビデオ、プラズマ・モニター、壁に設置
9. ラフト / 漂流
2004年 ハイビジョン・ビデオ、壁面投影、5.1Chサラウンド・サウンド
ビル・ヴィオラ・アーティストトーク
講師:ビル・ヴィオラ
聞き手:帯金章郎(本展共同キュレーター、朝日新聞社文化事業部企画委員)
宗教や共同体の規範や個人主義の意義が曖昧になり、日々を楽天的に生活することに困難を感じてしまう昨今。センシティブな人は、そんな閉塞感を敏感に感じ取り、息苦しさを覚えているのではないだろうか。
そんな現在、他者の死に直面したり、傷を負った他者や傷みを抱えた他者を目の前にした時に、どんな文化圏で生まれ育っていたとしても浮かべてしまう"共通の表情"というものが存在するとしたら、それはわれわれの希望足り得るか。、、、そんな仰々しい事を思いながら展示を見た。
痛そう。つらそう。たのしそう。うれしそう。
顔が表現する(もしくはしてしまう)事、そしてその表情で相手の気持ちを慮る事の出来る力を "相貌的な共感力"と呼びたいと思う。
今回展示されていたビル・ヴィオラの作品群は、まさしくそのような "相貌的な共感力" を軸にして展開されている。
今日のアーティストトークでは、日本滞在で得た知識やインスピレーションとして、道元や世阿弥、そして良寛などにまつわる"禅的思考"の話が多く登場した。
特に、『山の庵にこもり独りすごす良寛が、山の上から、山裾に暮らす他者を思い泣いている、という姿に感銘を受けた』という話が出た時に、彼が"compassion「あわれみ」"という単語で表現していたある種大乗仏教的なイメージは、"相貌的な共感力" に対して、彼が希望を持っている事を感じさせた。
個人的には良寛の解釈に対して違いを感じる部分も多くあるにせよ、彼の中の "慈悲" の感覚が少し理解できたような気がした。彼は、"彼なりの慈愛" を持って、世界や他者に対して開く:インタラクティブ であろうと努めている。
アーティストトークというのは、大抵聞いてから後悔する事が多いのだが、今回は話を聞けてちょっとよかったと思うこともあった。例えば、彼自身が次の世代のアーティストに対して、これからの作品形態は「Sub-structural」について「Non-Visual」に表現することになっていくだろうという旨の発言を聞いた事。今現在もなお切実に作品に向かっている彼の姿勢が伺い知れたのは、励まされたし負けたくないという気持ちにもなった。
作品に関しての感想:
《驚く者の五重奏》という作品の中央の男性から目が離せなかった。
慈愛/死と切実とが、同時に表出している顔をしていた。自らの衝撃や悲しみを深く受け止めてなお、他者に対しての憐れみを抱く。そんな風に見えた彼の表情から、私は私個人の信頼に足る、聖職者的相貌を見い出したのかもしれない。
《ラフト/漂流》 http://www.roppongihills.com/jp/feature/vol055/index.html#block3
私の知り得ぬ土地で、私の知り得ぬまま生まれ死んでいく人たちに、私はどんな顔をすれば良いのだろうか。モティーフがSocialでPoliticalでTooMuchな説教臭さを感じるこの作品の前で、私は先日読んだアルフォンソ・リンギスの『何も共有していない者たちの共同体』のことを考えた。
侵害されることに身を晒す悦び。なにができるかでもない。ううむ、そういうことなのか?
以下、暗闇で取ったノートを読み返して書き起こしてみたメモ:
まだ文章にまとまらないけれど、勿体ないので新鮮なままクリッピングしておきます。
気になっていたのは上下左右の運動と前後の反転(鏡と同)という図式。
向こうがこちらを見つめているのか、自分が自分をみつめているのか、と、複雑にさせるための工夫。
西洋の/特にキリスト教的な(神>人 :タイムベーストメディアなイメージ)モティーフを暗に使いつつ、東洋的な思想(空…人 :インタラクティブなイメージ)をベースに、ある種彼なりの道徳観や宗教観(特定のというわけではなく)を教育しようとしている。
ベンヤミンを真面目に読んでみようかなと思った。
展示のクオリティの高さ:
ケーブル、展示台、床等の配慮の行き届いた妥協の無い品質
同じ映像作品を何度か見ると、"演技"に気付いてしまう事がある
《ラフト》は一回見て部屋から立ち去るべきだった
朝早くから夜まで、「はつゆめ」展に居て、「来られて、見られて、よかったかも」と思いました。
やはり、モチーフがどうであれ、コンセプトがどうであれ、結局は"質の高い"作品というものを作らないと土俵にもあがれないんだと実感しました。
そのために努力できる事はなんだろう。そんな事を話しながら、友人たちと家路についたのでした。