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ブリコラージュ

ブリコラージュと言えばレヴィ・ストロース


第三百十七夜【0317】 レヴィ・ストロース『悲しき熱帯』
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0317.html

学術が文学なのである。きっとそういうことだろうとおもう。その逆に、文学が学術でありえた稀有の例だということでもあろう。

なるほど、上手く言うなぁ(感心しきり)。
文学が学術でありえる、っていうのは理想の形だなぁ。

レヴィ=ストロース自身がのちに何度も強調した「サンシーブル」(可感的なもの)と「アンテリジーブル」(可知的なもの)との境目をなくし、その合間に新たな均衡をもちこむという風変わりな見方が含まれている。ジャン・ルヴェルは当時、それを「特殊的でしかも普遍的な考え方の実験だ」と批評したものだったが、ぼくの言葉でいえば「抱いて普遍、離して普遍」の実験ということである。

ちょっと興味のある段落。サンシーブルとアンテリージブルの境目って、どういうものなんだろう。その基準は?それがよくわからないので考えてみたい。

レヴィ=ストロースが神話世界を通して発見した方法は「ブリコラージュ」といわれている。
ブリコラージュはもともとは「修繕」とか「寄せ集め」とか「細工もの」といった意味であるが、フランスではそのブリコラージュをする職人のことをブリコルールといって、あらかじめ全体の設計図がないのに(あるいは仮にあったとしても)、その計画が変容していったとき、きっと何かの役に立つとおもって集めておいた断片を、その計画の変容のときどきの目的に応じて組みこんでいける職人のことをさしている。
そのためブリコラージュにおいては、貯めていた断片だけをその場に並べてみても、相互に異様な異質性を発揮する。ところが、ところがだ、それが「構造」ができあがっていくうちに、しだいに嵌め絵のように収まっていく。本来、神話というものはそういうものではないか、構造が生まれるとはそういうことではないか、そこにはブリコラージュという方法が生きているのではないかと、レヴィ=ストロースは見たわけである。

これは、今私が読んでいる「人生 使用法」(ジョルジュ・ペレック著)とリンクする印象。
ジグソーパズルのたとえ話で表現している事は、これらの事に近いような気がする。
そして私は今そのあたりに問題意識を絞っている。

つねに「全体」と「部分」の関係を有機的に動かしていて、どこかで決着をつけていく。その決着のときに、あとから入ってきた部分がするする育って「超部分」となり、それが「全体」の様相をがらりと変えてしまうこともある。

おおお。それを試すためにオブジェクトを作ってみるという事をしてみよう。
部分と全体、生成される「超部分」。それが発揮する異様な異質性。今この文章すんなりわかる気がするわー。