◆NEWS :装幀してます 最近のお仕事は→仕事の記録 : Twitterから
◆NEWS:2007年3月、フリーランスのデザイナー兼ライターとして個人事務所を立ち上げました。

ビジュアログtumblr:http://okazawarina.tumblr.com/
つぶやきtwitter:http://twitter.com/rokaz
つぶやきログtwilog:http://twilog.org/rokaz

今さらながら

アフォーダンスについて学習。
論文提出が迫っている今、触れてはいけない分野ではあるとは知りつつ、やっぱり気になるアフォーダンス
理解できるようで、やはり実際を知らないのだ、と実感。現場による具体的な研究って何をやってるんだろうな。あーテクニカルタームを理解しなさすぎ。おおきな概念図では理解できてるような気がするんだけどな。
肉親が心理学畑なのでなんだか微妙な印象。哲学に近いんだろうなぁ、と思う。
アフォーダンスにおける不変項の実証って、どうやるんだろう?
私は私の抽出した不変項(のようなもの?)を、何を持ってして、実証できるのだろう。実証する術を持たないからこそ、「芸術」だと言ってのけるしかないのだろうな。


最近。「腑に落ちない」という言葉が気になる。これって、頭では理解できるけど体ではわからなーいっていう感じでしょ?体感として実感として「理解した」ということが「腑に落ちる」という語で語られるのならば、腑に落ちる体験の提供、それがデザインの役割だ、なんて言えそうなもんなんだけど。

深澤直人氏なんかは、このような事を言っているような気がする。環境からある情報≒価値を発見する。その体験があたかも自分で発見したかのようにみせかける。それは「あらかじめデザイナーによって想定された体験」だが、いかに自分で発見したように感じさせるかがデザインの領分だと言っている、という解釈。これって、「腑に落ちる」ためには、他人から「ほらここに不変項が」なんて言われても、ダメなときがあるのよーってことですよね(違ってたらスマソ)
まあ、これは「想定した体験」そのものが体験者に提供されている訳ではないと思いますが、、、。
これは最近読んだ『見立ての論理学』(森岡正博氏のweb参考)で言われていた

観客の主体の「解釈」という行為が作品を完成させうるのならば、作者は何を「発見」するのであろうか。
作者は、目の前に存在する明示的・即物的な前景を、目の前に明示的・即物的には存在しない後景の、終わりのない意味連関のネットワークへとつなぎ止める、その「通路」を発見するのである。(文意はちょっと私が略した部分があります)

という記述にリンクする。


じゃあ私の研究の場合は?

「見立て」は、象徴でも譬喩でもない。
「見立て」は既成の知識や形状に引き寄せられていくのではなく、それを意図的に操作することである。

これを真摯に考えると、文化を無視していると言われかねない(文化表象!!なんてこと!!ミームってうさん臭く感じるのは私だけ?)
そういう訳では無いんだよ、ただ私は、「腑に落ちてほしいだけなんだよー!!!」



クオリアといい、佐々木氏のアフォーダンスといい、トレンディな部分にしかふれられない私の立ち位置が寂しいよ。もっと学術的で論理的な証明方法が欲しい、、、。
たしかに何かあると思うのに、それに踏み込む為に必要な自分の足場が弱すぎる。こうやって私は欠乏感から学生を続けているんだろうなぁ。もう一回学生をしたい、なんて言ったら、周囲はあきれるだろう(苦笑)
さて、このオチのない話は、ただの逃避だ。さあ論文を書くのだ、書くのだ。書けるのかにゃあ?!