◆NEWS :装幀してます 最近のお仕事は→仕事の記録 : Twitterから
◆NEWS:2007年3月、フリーランスのデザイナー兼ライターとして個人事務所を立ち上げました。

ビジュアログtumblr:http://okazawarina.tumblr.com/
つぶやきtwitter:http://twitter.com/rokaz
つぶやきログtwilog:http://twilog.org/rokaz

被害者を演じるか、英雄を演じるか

援助者の思想―境界の地に生き、権威に対抗する isbn:9784275005939 P.294 L5-12
 
リンダ・ジンガロ: 磨かれた表現が強力であればあるほど、誰かが誤解したり、あなたが予測できないような形で影響を受ける可能性が高くなるという、力のリスクがあることを実際に理解することだと思います。最終的に、それでも私たちは力を選ぶのです。自分たちのためだけではなく、その力を必要とする人たちのために。それが代償の一部ですね。
 
エレン: そうですね。力を選ばなければ、無効に終わってしまうのです。私には力を選ぶ以外に選択肢はないのです。どうせ力を選ぶしかないなら、むしろ効果的なほうがいいです。効果的という言葉には良い意味も悪い意味もありますが、私は効果的でありたいし、効果的であることを選びます。それは自分が予期しない、あるいは望まない効果も含むということになるでしょうか? そうですね。ただ、そうなってしまう回数を少なくするのは私の責任です。

きわどい過程について。
自発的にそのリスクを負うこと。



「そんなことを知りつつ、いかに生きるか。」


援助者の思想―境界の地に生き、権威に対抗する isbn:9784275005939 P.298 L6-8
 
“磨かれた物語”、“一言で言う”、あるいは“私”という言葉の代わりに“私たち”という言葉を用いることが、支配的なものと従属的なもの、そして声と声にしないこととの間の空間にその境界の両側を知りながら責任を持って、いかに生きるか導いてくれる。

援助者の思想―境界の地に生き、権威に対抗する isbn:9784275005939 P.298 L10-13
 
エレン: 仲間たちのために、自分について知っていることを他の人たちに明らかにすることです。普段は見えない、暗黙の部分を明らかにすることです。私たちは真空状態に生きているわけではないのです。だから個人的な体験の権威に基づく主張をする時、人間の行動や知識の可能性について語っているわけです。私が体験したことが、私の知識に貢献できるなら、そして、自分がいかにそれを成し遂げたかを他の人に示せたら、その人の理解を助けてくれるかもしれません



援助者の思想―境界の地に生き、権威に対抗する isbn:9784275005939 P.305 L14-18
 
私たちは大きな意味で、語り手と自分自身が共同体の整合性や、自分自身とお互いへの意味の創造に貢献していると見るべきである。これらの物語の中で、私たちは倫理的主体としての語り手によって、倫理的行為体として反応するよう要請されている。いや懇願されてすらいるのだ。私たちは世界における痛みや権力の問題に思慮と品位をもって、私たちの強力で勇気ある応答可能性(責任)をもって関わるよう呼びかけられている。

このくだりはすごいよくわかる。
危機にさらされていること、必要とされていること、可能であることを位置づける語りの構築における自己と物語との関係。。。
あまりに強力な要請を引き受けきれないと感じるとき、逃げたくなることもあろう、その可能性と逃げる余地は認めてあげないといけないと思うんだけど、それでもなお?
それでもなお要請されるならば。私はそれを引き受ける責任を感じるし応じる覚悟はできています。そんなことは決まってます。



聞くものが、物語に応じるときの注意深さ。高潔さや共感。
また、語るものが、磨かれた物語を実演するときの抑制の必要性。「開示の結末」というひどいものであってはならない。



優劣や上下などない。また、対等ではない。ただただ、断絶されたそれぞれの個。それを「わたしたち」と呼ぶこと。



一人称複数形。


私の不注意。みにしみる。
語り手という立場を選んだ人への敬意、そしてまた物語そのものへの敬意。
 

援助者の思想―境界の地に生き、権威に対抗する isbn:9784275005939 P.325 L16 - P.325 L1
 
私たちは、いつどのように語るのかを、いかに決めるか適切な判断をし、自分が“高徳”を持つ人であると信用することである。また、声をあげることを励ます立場として、私たちは語り手の力と判断を尊重する必要がある。私たちは語り手が聴衆とつながることに力を注ぐ行為を見定め、評価する。そして私たちは、お互いの差異から生み出される、なくすことのできない線をこえたつながりを維持しようとする、絶え間のない見守りが必要な繊細さに敬意を払うことである。