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27日の夕方ごろ

友達にグダグダ私の悩みを語る。全くもって迷惑な話である(苦笑
しかし、今日語った話は、ここで纏めて記述しておくべきだと思うので、そうする。


私は、私達は、情報という環境に囲まれているということを延々考えている。
おせっかいにも、これを体感する空間を作るのだ、と、ここ最近、「制作」と銘打って、
時間やお金や身体を消費し続けている。
こんなこと当たり前じゃ、みな知っとるわい!と言われれば、その通りです(すごすご、、、)と退散するしかない。
悩み相談の大まかな筋としては作家の身体/はどこにあるのかということなのである。


作家性』というものの定義ができない、というのが問題である。
ま、簡単に言えば、私の立ち位置が決まらないという情けない話だ。

私は「作品」を作るが、それはどうやらある「場面(1」を作り出す「きっかけ(2」を導くための手段である、ようだ。
1 場面は「はっ!」であったり、「ふーん」であったり、「じぃん」であったり、「ウルウル」であったり、、、
 まあ、なにかしらの「感情」を導き出す場面である。
2 きっかけとは言っても、たとえば机の上にあるペン立ての位置を変えたりする、程度のきっかけである。
 しかし、たとえそれが些細で、まったく本筋に関係のないことでも、確実に場面に影響を及ぼす。
 (むしろ、きっかけのありかも場面の変化も些細であればあるほど、好ましいと思う傾向がある)


「環境情報」から「メディア」を使って現れる「価値」を受け取った後、完全に鑑賞者の内部の働きに依存して
はじき出される「感情」。
ここまでは整理できるよね?ここまではアートの文脈にある、と思う。
まあ、机の上のペン立てを動かすなんてことは作品では無い、とも言える。
でも、そんなことを言い出すと、作品なんてどこにも無くなってしまう。
なので、これもOKだということにしよう。すると、、、。
ペン立ての位置の変化のどこに「作家性」が存在するのだ、、、?!


そこでにぎにぎしくパフォーマンスとしてペン立てを鑑賞者の前で移動させればアートだ。
しかし、私はその場にいることを拒否している。
勝手に鑑賞者が場面に遭遇するのがいい。だって、鑑賞者の仕事なんだもん。丸投げ(苦笑
でも、これって、、、、
これじゃあ、「神様になりたい」と言っているようなものじゃないかー!!


私はアートが好きだし、コンピュータを使用したインタラクティブアートも好きだ。
そして好きだからこそ、インタラクティビティについて考察する。
そして、すればするほど、鑑賞者のなかにある働きとしてのインタラクションが気になってしょうがない。
作家性みたいなものがあるのなら、積極的に消したい。


ここで一歩先に。「それってデザインだ」
そう、そうなんですな。アーティスティックな瞬間(場面)をセッティング/演出するデザイナー。
これは納まりが良い。随分前から分かっていたことだし、以前このように落ち着いていた。
二度目の確認である。
しかし、これじゃあ、「神様になりたい」と言っているようなものじゃないかー!!への
回答がない。


あなおそろし。電波ゆんゆん
これじゃあ青春。
はやく自分のスタンスを決定したい。