言葉と文化―ポエジーをめぐって (叢書・二十世紀ロシア文化史再考)
- 作者: オーシプマンデリシターム,斉藤毅
- 出版社/メーカー: 水声社
- 発売日: 1999/06/01
- メディア: 単行本
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先日「曖昧さ http://d.hatena.ne.jp/rokaz/20070116#p6」という記事を書いたが、そのとき抱いていた不安な思いが、この本で解けるかもしれない。
読者の知覚における詩作品の歪曲は、まったく不可避な社会的現象であり、それと闘うことは困難であり、また無益なことだ。読み書きができる者のすべてに、プーキシンを,彼らの魂の欲求が望むように、また彼らの知的能力が許すように読むのではなく、それが書かれた通りに読むことを教えるくらいぐらいなら、ソ連邦を電化することのほうが簡単なのである。
冗談じゃないーーー詩を読むだなんて! 我こそはと思う者は出てくるがよい、そんなことが誰にできよう?
というのも、音楽上の読み書き、たとえば楽譜の記譜法[書法]とは違って、詩の書法では、テクストを理解可能で合理的なものにする多くの記号、符号、指標、言外に暗示されうる諸々のものが書き込まれておらず、その不在が大きく口を開けているからである。しかし,これら省略されている記号はみな、楽譜の記号や舞踊の象形文字に劣らず正確なものである。詩的に読み書きのできる読者は、そうした記号を、あたかもテクストそのものの平方根を求めるかのように導きだして、自分から配置するのである。
詩的な読み書きの能力は、いかなる場合であれ、普通の読み書き、つまり字を読む能力とは一致せず、また文学上の博識とさえ一致しない。
P39 L1-14
省略されている記号はみな、楽譜の記号や舞踊の象形文字に劣らず正確なもので、詩の読み書きの能力は普通の読み書き、つまり字を読む能力とは一致せず、また文学上の博識とさえ一致しない。というくだりに、ものすごく安心した。
私は、詩の言葉でしか本当の発語ができないと思い込んでいて、限られた人(もしくはそこに居ない人)としか対話が出来ないという悲しみに日々暮れていたのですが、詩の読み書きの能力というのは、たくさんの人が常時発揮しているものではないのだと思えば、カリカリしても仕方がないな、とあきらめもつくような気がしてきました。
まったき他者性を通過しても、詩人の言葉となら、正しさを確認してそれを自らの力に変えられるのかと想像すると、本当に救われる。
私は、もっともっとたくさん、読めば良いのだと思う。