http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060430-00000006-maip-int
ベラルーシ 若者ら無言のデモ 弾圧政策に抗議
【ミンスク杉尾直哉】反政府運動への弾圧が強まるベラルーシの首都ミンスクで28日、若者ら約400人が無言の抗議デモを行った。
デモは、インターネットを通じて呼びかけられた。短時間の集団路上パフォーマンスで、市中心部でデモが禁止されていることに対抗する苦肉の策だ。
若者たちは「十月広場」に集合。当局により、事実上廃刊に追い込まれた独立系週刊紙「ナーシャ・ニーワ」(われらの大地)を読みながら約20分、市中心部を歩いた。
参加者は無言のまま解散したが、私服の公安職員が次々と路上で尋問し、タス通信によると数人が逮捕された。(毎日新聞) - 4月30日10時17分更新
V フォー・ヴェンデッタを見て、攻殻機動隊2ndGIGを思い出したように、このニュースを読んでそれらを思い出した。
こういう連帯感というのは、“俗に言うところの「愛」”以外の何かが働いているのだろうか?
祭りを面白おかしむ気持ちとか?恨みとか?その構成要素を分析しているような研究はあるのだろうか?(フラッシュモブの研究はありそう。)
- 作者: アルフォンソ・リンギス,野谷啓二
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インターネットという道具のもたらした“人間の関係性”の変化は、もしかしたらグルンと世界を転回させるところまできているのかしら。なんて思ったりする今日このごろ。
でも、私は、日本に生きている限り、ベラルーシの若者のように「これは圧制だ!」なんて感じることなく、ゆるやかに扇動されるグループの中のひとりになっているだろうなぁ。身につまされてつらいことがないっていうのは世界的に見て、ある種特殊な状況下なのかもしれない。
これらの振る舞いを観察しているとあまりに興味深く、コンセプチュアルアートと呼ばれる部類のものは相当なことをしないとそれを超えられないなぁと実感する。(「ハプニング・アート」? 微笑もしくは苦笑)
こないだ、自分の属するクラスに「ユートピア思想だ」とタグ付けされてから、ちょっと考えています。この連帯感に名づけができたら。
このクラスは何をもってユートピアを志向すると思われたのか。その目標を見定められたら。
“ユートピアには到達し得ない(だって理想郷だから)”という圧倒的な回答を知りながらも、そこに向かって進もうとするその知的好奇心はどこからわいてくるのか。その動機を分析できたら。
以前、ある教授から「作品から政治的なニュアンスを一切排除するという思考自体が政治的であると自覚せよ」といわれたことを思い出した。
無意識につくったものが政治的でなければ、それは自らがそのような政治的環境にいるという表明であるし、そこには後からいくらでも政治的に意味づけできてしまうものだ。そうなのだ。
ああ!面倒くさい!!!
ニュータイプ(いわゆる2.0)になりたければ、“生まれながらの2.0”として新しく生まれる世代を教育して自らのプログラムをそこに埋め込むか、自らが転回し再度初期状態からセットアップしなければならない。
しかし、再度初期設定するなど可能なのだろうかしら?
名づけ得ない関係性は、同時代に同じ場所にいるという事実から発生する愛着(もしくは愛情と同情)からつむぎだされる。
同情、尊敬、依頼、野心、目測、短期目標、などなど。