現象学者とは誰か。そして、その孤独とはいかなるものか。
この間開催した私の個展には「現象学者の孤独と虹」というタイトルがついていました。
私はこのタイトルに向かって思考を重ねていったのですが、「"現象学者"とは誰か」という点において、開催期間中はまだはっきりと見えて来てはいませんでした。(その言葉に向かうベクトルは感じていたのですが)
そしてこの言葉に引き寄せられる様に読書や思考を進めてきて、私は最近、ようやく自らの設定した「現象学者の孤独と虹」というタイトルに対する"私の状況"を把握する事が出来始めています。
そんな状態をもう少ししっかり把握したいと願い、自分が読みたいという理由だけで長い長いエッセイを書いています。
抜粋:
まずは「孤独」という単語を題名に使った事に対する自己言及からはじめました。
この『孤独』とは何か?
それは私にとって、詩人の持つ性質のようなものだと思いました。詩人が、身から内からどんどん手放していく喪失のイメージです。そんな私の持つイメージに一番近いと感じたツエラーンの孤独に、強く惹かれました。そこには寓意を孕んだ孤独と叫びが溢れていました。どこかにいるはずの読者にむけて書かれた言葉。白い灰がうす高く積もっている広陵。
私は、そういう希求の心を寓意に取り込んだ表現を自らが行うというのは許容できませんが、それは時代的な問題意識に依った価値判断だと思います。寓意は、読む分には良いのです、それが放つ物語に取り込まれさえしなければ。
次いで、『孤独』を外部から考えるという方法をとってみました。それは、クレオール/群島的/グリッサンの著作から着想を得ようという試みでした。グリッサンの話す"ポリフォニー"のイメージはものすごく希望を感じるし励まされました。しかし、ポリフォニックなものを受け入れるという態度は、オリコウさんではあるけれど、今回の私の抱く展示のイメージ(姿)には馴染まなかったのです。
『孤独』と外部との関係において、この多声性に対する違和感を、例え話で言うと、『"虹は奇跡"、と言われるけれど、実際の所、"私には何も起きない"のです』。
一旦、相対的な『孤独』の囲い込みをあきらめ、私は自分と向き合う事を余儀なくされました。
"私には何も起きない"と思っているのは私自身でしかあり得ないのです。そこには、詩人の孤独と同じ構造があるとおもいました。
//作品制作において、まさか私が自分自身のことを考える様になるとは思っても居ませんでした。そういうスタイルを疎ましく思っていた側面があったと思います。そういえば、大学院のときにも論文に「私」という主語が抜けていると指摘されました。//
私は自身を、全状態において中庸でありたいと願っている事に気付きました。「私には何も起きない」ではなく「私に何か起きては困る」と思っているのです。それはどうやら、行き過ぎた中庸のイメージであり、社会的に言えば機能停止と同義であるような願いでした。
身の内にある破壊的な欲求に気付いた私ですが、それが悲観的だとか恐ろしい事だとは思いませんでした。もっとプレーンであっけらかんとした諦観のような感覚を抱いたのでした。
そこで、メルヴィルの短い小説"バートルビー"のあのセリフが思い出されました。「I'd prefer not to しないほうがよいのですが」
そこで、アガンベンの著作『バートルビー』を読み直し、さらには『中味のない人間』を手に取りました。そこでデューラーの「メランコリアI」という版画を知ります。その版画に書き込まれているモチーフが、私の作った展示空間に配置されていたモチーフと類似している、と私は思いました。
そのタイトルに"メランコリア"という言葉が使われていて初めて、私は『あぁ、私の抱いているこの"現象学者"という言葉は、"メランコリー"とほぼ同義なのだ』と気付く事が出来ました。
他者受容を目指すためのプロセスで、思わぬ所で見ないでいた"自己"の像を発見し、頭を抱えているようなものです。
(だらだらと続く)
重力:現象に踏みとどまり理知的であろうとする姿勢
対
想像力:それと相反するような無邪気な飛翔
でもそのどちらもが内語であり、いくら誠実に取り組んでも、むしろ誠実であろうとすればするほど、孤独になっていくという構図が見えてきました。