大前提:詩学は科学ではない
そのうえで考えてみよう
詩学の閾値
閾値の詩学
どちらが詩か、どちらも詩か
閾は差異の知覚を限定する
あまりにも微細な差異やあまりにゆっくりと現れる際は知覚されない
長時間をかけて微細な変化を続ける出力機械 とみなしたときの「みちかけ」の意味
長い時間をかける必要があると確信した理由を言語化する試み
memo:キャリブレーション
●ミニプロジェクト「playcards」について
これが、現代詩だ(科学ではなく)といわれたのには多分理由がある。
思いついてすぐ、無目的風に始めたプロジェクトだったが、やる意味はあるとは思った。
何人かに見せて話を聞いて、まとまって来たこと
ある単純(に見える)なパターンをうけて、次に出る単純な値を期待する過程の観察
価値生成の瞬間の観察 閾というもののみきわめ
が目的だった
あとでベイトソンの書籍の中で、まったく同じような話があったのに驚いた。
そうか、ものすごく基本的なことだったんだな。
これを表現手段として使用する事は、作品の開かれに対しての作家のあり方として有効だなぁ。という思いに追い風のこの記述。
精神と自然―生きた世界の認識論 P37
不運にも(幸運にも、と言うべきか)、次に来る事実を前もって入手できるなどということはけっしてありえない。われわれに持つことができるのは、単純であってくれという願望だけなのだ。そして次に来る事実は、いつもわれわれを一段と複雑なレベルへ押し上げる可能性を孕んでいるのである。
あるいはこういう言い方もできる。私が出すどんな数列の問題も、その簡単な記述法が必ずいくつかあるだろうが、簡潔であることを重んじなければ、その記述法は実に無限にあるのだと。
●ある単純な法則性を持った(ように見える)事物の列挙/できるだけ大量な方がいいな 目もくらむような!
●知覚できるかできないかの、すれすれの差異しかない単純な変化の、差をどんどんと大きくしていく
第一段階
前提の認識←とあるパターンの教育、学習
のち、梯子をはずし、肩すかしをする
第二段階
その後、別のパターンを提示し、第一段階のパターンと比較できるようにし、
より複雑なパターンを想定できるようにする
第三段階
さらに梯子はずし