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身体(アナログ)/ 思考(デジタル)?

視点・論点まん延するニセ科学」菊池 誠
http://www.youtube.com/watch?v=9LNRYsyWgEY
 
※きっと消されるからその前に見ておいて下さい。

要約:
血液型占い/ゲーム脳水からの伝言マイナスイオンゲルマニウムなどの疑似科学の話
 
科学には、『白黒はっきりつけてくれる』というパブリックイメージがあるが、実際はそんな単純な物ではない。二分法による思考停止ではなく、合理的な思考のプロセスをこそ科学に求めてほしいというお話。
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雑観:
PCの一般流通にともない、"デジタル"というコンセプトが 曖昧ながら ひろまった。また、そのPCを通じてインターネットに接続し、世界中の情報が閲覧可能である。
それらの仕組みに無自覚なまま、機構をブラックボックスとして捨て置き "便利な計算機や辞書のようなものだ"という これまた曖昧な認識で使用している場合(疑似科学に依る大多数はそうだと思われるが)、外界の情報というのは"デジタル"なものであると言うアナロジーを形成してしまっても仕方があるまい。
 

われわれは本来、外界と、皮膚や目・耳・口などの身体:アナログなメディアで接し、情報を入出力している。
しかし、前述のようなアナロジーをもってすると、それらアナログな入力も、頭では0/1のデジタルなものであると物語的に思い込む思考パターンになっているのではないか。
  

身体による入力からの認知と、過去の経験:物語的なスキーマによる類推。
本来この二つの入出力情報は相互補完的に働いており、「どちらだけ」というものではないのだが、確かに、全ての人がそれをバランスよく行っているとは限らないのかもしれないと思い至る。
 
 
*以下、思いつきメモ
たしかに、思考のうえではデジタルな外界というイメージがあるのは理解できる。
 
外界には二種類あるのだ。
身体的な外界(アナログ)/ 思考的な外界(デジタル)
   良い言葉が見つからないので大意でくみとってください
  
これら疑似科学に対するその人自身のスタンスは、自分の皮膚よりも外部を、アナログととらえるかデジタルととらえるかによって大きな違いが出てくると思う。テキトーな分類をしてみた。(きっと、おこられると思う。)

○と×は、大きな意味で、○信じる ×信じない という感じだと思います



1 脳もアナログだ
○身体的(アナログ)/ 思考的(デジタル)○  
 
2 マッチョ 身体派
○身体的(アナログ)/ 思考的(デジタル)×
 
3 電脳化 ネット
×身体的(アナログ)/ 思考的(デジタル)○ 
 
4 孤独orニヒル
×身体的(アナログ)/ 思考的(デジタル)× 

まぁ、こうやって二分して記述している時点でダメなんですけど(苦笑)


コレを書いてみてちょっと思った事は、くだんの"スピリチュアルブーム"などは、これらいずれかの分類に入りかねる、意志や興味の薄い層に対して、1的な物語を与え、それを機構としたコミュニティないしは経済構造を作ろうというコンセプションなのかしら、と思ったり。


アナログな外界/ものを無理矢理、想像上でデジタルな外界/ものに変換する際に、無理が生じて出来た曖昧でとらえどころのないものがGhostと呼ばれるものなのだなぁ。なんて。
より厳密に知識として"デジタル"を理解すればするほど、どうしても翻訳しきれないghostがある、というのがこれまた、面白いところなんですけどねっ。


おまけ

雪 (岩波文庫)

雪 (岩波文庫)

水からの伝言」を教育の場で使うのは私も大反対。
中谷 宇吉郎氏に申し訳が立ちません。
 

知識の欠如もしくは思考の停止によって、なんとなくの"ムード"(この場合、身体にいいらしい、とか)という外部から提供された物語の流れに身を委ねてしまう。それは情報過多の時代にうまく「やりすごす」ための手段なのかもしれないが、教育の現場ではそうは言っていられない。
子どもは、好奇心から直裁に、全てを知りたがる。そしてちょっとでも曖昧な点は指摘してくる。「なんで悪い言葉を言ってはいけないの?」「なんで?」
先生が言う事は事実であると信じろと言われて素直に従っている子どもたちが、「科学的にみてもね、」と水伝の話を聞いているのであれば、、、と思うと、ぞっとする。
 
今の時代に道徳的な善悪のよりどころが見つからないことは理解できる気もするが、それと科学のパブリックイメージとは関係付けない方が良い。
例えばオトナでも、「ゲルマニウムが効く」というのが本当に事実なのかそうではないのか、ある程度知識や教養、好奇心がないと判断ができないからだ。
 
まだ「なまはげ」に悪い事しちゃいけないと脅される方が、同じ物語でもましな気がする。
子どもでも、冷静に考えればそれは仮面をかぶったヒトだとわかるから。