本日、大学での授業だったが、2コマしゃべっているうちに、喉がイガイガになり困ってしまった。
なんとか最後までやり通したが、これで炎症を起こして悪化しては困るので、のど飴をなめて押し黙っている。
まぁ、読書には良いタイミングか…ということで『援助者の思想―境界の地に生き、権威に対抗する』を読む。
いろいろ納得いかない事も書いてあるが、総じてどういう問題について私が考えているのかが少しづつ見えて来る。
はてダと文学を頼りに、私自身の記憶をdigっていく。
どうしてこのキーワード・この本につまづいたのか…。
この本自体には、京都 四条のジュンク堂で2009/8/1にひっかかっている。インデクスチェックで棚をざーっと眺めて歩いているときに、タイトルにぐっと引き寄せられた。ちなみに、その時には、ぱらぱらとめくったが購入はしていない。読んだら混乱してしまうかもしれないという予感があって避けた感覚を覚えている。
しかしその後、ノートには『援助者』というキーワードが頻出する。
高橋和巳の『邪宗門』を読んだあたり(2009/8/17-25)から、さらに『援助者』というキーワードへの意識が表に出だしたのではないかと思い出される。
特に、登場人物のうちのひとりの老女が「絵は見えたのか」と発言するシーンに衝撃を受けているノートが残っている。その発言にまつわる調査として、日本の新興宗教の"おふでさき"をいろいろと手に取ってもいる。
『邪宗門』の前には、大江健三郎の『宙返り』を読んでおり(2009/7/22 読了)、その時にはダンテの『神曲』についてくどくどとノートを書いている。*1
そこではアサさんという登場人物に対する考えが展開しているメモも残っている。*2
どちらの登場人物も、のちにワタシの炎を灯す火種となっている。
そしてどちらもが『援助者』という言葉との関連を持っている。
さらにdigる。
潜在的には、そのもっと前、2009年の年初に、『公開シンポジウム:S/Nについて、語られなかったこと』を見た時から始まっている気がする。*3
というか、ここで聞いた話のうちのひとつが、今の思考に至るための大きな鍵になっているのではないかと思う。
dig. dig. dig...
詳しくは書けないが、私は、そこで語った人の悲痛な声に感応したのだ。
と思い至る。
勇気を振り絞るように語りはじめるが、どこに着地してよいか分からず空転していく声。
何故、彼女は自らを痛めてまで人前で話しはじめないといけないと思う状態に追い込まれているのだろうか?
もしそれを勇気というのならば、私は彼女の口元をそっと塞ぐ事ができたらと思ったのだった。
『『私のその思いは、どこからどのように湧いてきたのだろうか?』』
ぞっとした。
励ます なんて言葉を使う気はない。では、何故?
私は、それをこそ胸につきつけられ、立ち尽くしてしまったのだ。
彼女の声は、私を中空に投げ入れてしまった。
模範的な姿などない。そしてもちろんショウなどでもない。
だれに向かって? 何に対して?
自らの尊厳を自ずから傷つけてまで語らせようと仕向ける力…、何のどんな構造がそう仕向けるの?
それは誰の意図?誰の発する力なの?
じゃあ、
読め 読め 読め
作れ 作れ 作れ
書け 書け 書け
の声に従っている自分は、どうなんだ?
どうして読め/作れ/書け と 追い込まれているのだろう?
私はその中空に浮いた日から、もう一度、地面を見つけ出すために格闘してきたのではないか。
周縁を周縁としてとらえ、その外を感じ、ギリギリのエッジに立ち続けるための格闘。
Vie.
そして2009/9/1、NOLAの構想がスタートしたのだった。
この状況では、小説を書くことしか出来ないとおもった。(今でもそう思っている)
そんなこんなで、ここ一年をdigした過程を、曖昧で粗いながらもここに書いてみた。それが良いか悪いかは分からないが、書いてみた。
リライトをくりかえして、ずれを導入していく。
次第に肉厚になって、次第に削られて、いずれは数行のクッキリとした散文になれば良いと思う。