Microserfsより
"ボクらみんな"に存在するものより、"外"にあるメモリーの方が多いことになる、ボクらは自分たちの核となるエッセンスを周縁化してしまったんだ
この新たな状況の中で、"歴史"的な感覚が存在するという予測は、死ぬまでなくとも、とにかくどうでもよくなってしまう。メモリーへのアクセスは、我々の種が、過去をプロセスする方法として歴史的な知識と交代させてしまった。メモリーは歴史にとって代わってしまった。それは悪いことではない。それは逆に、ボクらが過ちを犯すという呪縛から逃れることのできるという素晴らしいニュースだ。ボクらは生きていきながら、自分たちを編集していける。オン・スクリーンのドキュメントのように。歴史が中心にあるという感覚から、メモリーが周辺にくるという転換は、そのことに関して、人が知性の遅鈍さを脱ぎ捨てるに従い、最初は大変かもしれないが、その変換自体は避けられないことで、我々が既に変化そのものの捉え方も変えてしまったのはありがたいことだ。