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ここ数年ずっと、賢くなりたいなぁと強く思っていたんだけれども、賢く"みえる"のはあまり良いことではないなぁと思い至って、先日「賢くない様にみえるように振る舞いたいなぁ」とふと思ったんだけど、それって全然賢くない考え方だから、いっそのこと本当にアホになっちゃいたいなぁと思ったんだ、でも、アホになるってもう不可能なんじゃないかな?と思った、だけど、「アホになっちゃいたい」って考え方自体が既にアホなことだから、私は念願のアホになっているのかな?

じゃあいいじゃん(笑)


"世間様"を感知している時点で、"賢い"というパラメータの基準を外部に設定するからアホなんだよ。そんなことは分かってるんだけど。
じゃあ何故、美術家という人たちは、作品を他人に見せちゃったりするのよ?それがどうしてもわからないんだよ。


他者に対して「よかれと思って」アプローチするのは、"孤独"の表現なのかしら...?
そうなのだとしたら、孤独に対してタフな人には、より厳しい犀の角の道だね。ウッウー。


もっとニュートラルに、大河の一滴としての振る舞いを意識するのか、
もしくはもっと情動的に、ともすれば官能的に、暴れまくるのか、、、。
中途半端な自分を実感します。どうすれば良いものか苦慮しています。


まずは、価値語を入手してみようと思い、失っている身体性を獲得する方法を考えています。
旅とか、運動とか。ダンスとか。農業とか天候とか、、、。