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せっかくだから信仰についてもうちょっと踏み込んでみる

今日、友達とランチしながら"宗教なき者の信仰心"について話をした。
互いに、特定の宗教を信仰しているわけではないが、宗教に対しての知識や興味はあるというセッティング。
いまはてブ界隈で盛り上がっているクオリア関連のエントリの話から、それってひいては攻殻の上部構造が可能かってことだよねとか、そのあたりからはじめた。そこから、信仰について何かを考えたいと思っているのだけれど、ただ私は、どうしても特定の何か信心する事が出来ないということを話した。そのうえで、先日書いた仏陀の「犀の角」の話と、たちこまさんのコメントが衝撃的だったという話をした。
大体私の話したい事を理解した友達は、「もし、、、」と話し始めた。


「もし、例えば、もし、生まれたときから強制的にとある宗教的なコミュニティに属す必要が合った場合どうなっていただろう。」
それは、、、何も考えずに受け入れちゃうだろうなぁと思った。祈れとか拝めとか言われたら素直にやっていたかもね。むしろ、そうであったらどれだけ楽だったかとも思う。だって今、信心についてこんなに苦しんでいる訳ですからw
じゃあその場合、どの宗教だったらいい?と言われて、「しいて言うなら仏教かも」と答えた。基本的には日本に生まれ育ったし、一番肌馴染みがあるし。
「確かに仏教の基本プログラムはかなりよく出来ている。神道のありかたも、曖昧の妙味というか、とにかくよく出来ているよね、日本って国はこの点でホントにいいね」なんて話題もはさみつつ、さらに進む。


別の宗教についても考えてみた:
私のキリスト教に対する印象は、"守るべきルールの規定とその共有"みたいなルールによって囲われたコミュニティ、っていう感じ。
不意に思い出したことがあった。私がアメリカに住んでいた時(中学生のころ)は、そんな"共有のルールの感覚"からはぐれている自分を常に感じていて、それが攻撃対象(ヴァルネラヴィリティ)にならないように必死だったという事を。
小学校の頃には、家の真ん前にある教会(というか小さな部屋)に通い、新約聖書は毎晩すこしづつ読んだりして、キリスト教に対する興味は多大にあった。しかし、その時に神様やキリストに感じていた魅力と、あの居心地の悪い感じは、全く別なものだった。


ああ、そうか、別に仏陀やキリストやムハンマドをきっかけに「魂のこと」をするのは受け入れられるのだ、ただ、人が集まって集団となった際の組織力が、その宗教の基礎となるプログラムに向かうときに邪魔に感じてしまう性分なんだ。だから特定の宗教を信心するということを避けてしまうのではないか、という結論が見えてくる。



独りでは正直言って辛い、まだ弱い弱い我が身、こうやって話のできる友人が居て本当に力が湧く。
脱力しながら100%の力を出すような身軽さ、絶対肯定のちから、笑い声、そのあたりを持って日々精進していきたいね、なんて素敵な締めでランチ終了。
いい日だった。