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曖昧さ

数年前、「詩を書くなんて楽勝」と口走ったことがある。そんなことよりも書いた後の方がよっぽど難しいと思っていたからだ、相対的に。いや、最近は、「楽勝だと思っていた気分」は難しいと思いはじめている。
高校時代から戯曲をかきはじめて、大学〜大学院時代は詩を書いていた。ご飯を食べるみたいに毎日書いていたので、適性はあるのだと思う。
自分なりの詩の書き方、というか着地のさせ方というのはもう見えていて、それが「楽勝」気分につながっていたのだと思う。
"詩っぽい"というプラウジビリティを抽出して、それらしいモティーフを選び、チャーミングな順列で構成する。そこにちょっとだけ、自らの体験や思いを封入する様に自分にしか紐解けないちょっとした暗号キーのようなものを足してやれば良いと思っていた。
今になって思う、本当にそれでいいのか。
その方法は結構俳句に似ている。しかし俳句と詩は違うのだ。俳句は、ものによせて思いを綴るものだ。その点でポエジイの発露の方法論が違う。
確かに、文体やモティーフの選択で、詩の70%は占められているのだと思う。しかしそれだけでは、想定された読者がいないことになってしまう。私は10年後の自分のために詩を書いているのではないのにも関わらず、構造だけを作るのはむなしい。虚空に投げ込まれる暗号の鍵。
今はただ一つだけの方法論に依拠しすぎていたのだ。私には、あと数種類の曖昧さの方法論を学ぶ必要がありそうだ。そこにこのむなしさを乗り越える何かがあるかもしれない。