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動物の発語

京都芸術センターで上演された「動物の演劇」を見てきました。
大変不敬なことに、開演時間に間に合わず中途入場という最悪なことをしてしまいました。しかし、今日この場に居られて本当によかったと思いました。
終ってからしばらく、身震いもしくは武者震いに、指先が震えて止まりませんでした。
できればもう一度きちんとした形でみたい、と自らの失敗を後悔しました。

詩だ、これは詩だ。

陽が昇り、暮れて、寝る。また陽が昇り、目を覚ます。
いたみ、かゆみ、ふるえ。意図せぬ苦しみに身体をかきむしり、壁にぶつける。
笑い、おかしみ、いたわり。魅惑、接触、無関係。異形、ちょっかい、揶揄。


速く動けばぶつかる、衝突は争いをうむ。
夜になれば眠くなる。
暗闇の中の一点の光にすがり、慈しみを求める。


誰かの腕に無意識に触れた掌の温度を思う。



山下さんと野村さん、そして島袋さんには去年の二月に「僕たちの好きな本」というイヴェントをやっていただいたのですが、その時に感じた彼らの詩性に、強く惹かれていました。
今回この公演を見て、「やはり彼らは詩人だ」と思いました。わたしにとって、それは最高にかっこいいという賛辞です。


作者/演者/演奏者の「あぁ!」

身の内からわきあがる"生"の価値語。
それは、記号的なモティーフを組み合わせて出来るコンセプトなどではなく、"あぁ、生きているなぁ!"という発語のうちの「あぁ、」と「なぁ!」の部分だ。だから、"生"の表現に言葉なんていらないのだ。


パンフレットの山下残さんのコメントを読むと、記号的なモティーフを使いすぎないように演者に即興の際の制約をどんどん課して言ったのだということがわかる。この「あぁ、」と「なぁ!」を公演という形で何度も演じて考えるとき、いかに厳しく追い込みをかけないといけないかと思うと、その苦労は想像するにあまりある。


コンテンポラリーな表現における文脈など関係なく、素直にまっすぐに本質に向かう態度。それはもしかしたら誤解をうけたり理解されなかったり、ひいては攻撃されたりするのかもしれないが、私には、もうそういうものしか響いてこない。
今日のこの私の身震いは、"いま、ここの、あぁ!を表現する"ということをあきらめかけていた私自身に対しての、作者/演者/演奏者の「あぁ!」が響いてきた証拠だと思う。


わたしも、ちゃんと、やらないと。と、つぶやいた。


様式と越境

音楽には様式がある。ダンスにも様式がある。それを使いつつ、ある瞬間乗り越えをみせるという面白さ。
舞台中央のピアノとアコーディオン。Jazzの記号に見える帽子。演奏者のいるブースと演者のいる舞台という構図。
メロディを奏でていたアコーディオンが、音を出すのを止め、ただ呼吸する。ふいごのはく息づかいが演者の呼吸になる、スー、ハー、スー、ハー。
ピアノをひいていた演奏者/作曲家 野村誠さんが、ある時帽子をすっと脱ぎ、演奏者と演者の様式の境界線がゆらぐ。
その瞬間、様式ではない何か、「あぁ、そこに、いるなぁ」があった。