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『家の?』

中谷礼仁さんのブログで知った、この問題
http://www.acetate-ed.net/blog/nakatani.php?itemid=756
 
 
『家の?』っていうのは、とてもかわいい絵本なんですよ。
裏側でこんな事(中日新聞
http://www.chunichi.co.jp/flash/2006060801004045.html)が起こってるなんて知らなかった。
  
 
この問題を直接考えている訳じゃないんだけど、これを契機として、最近思うクリエイティブ・コモンズについての覚え書き。
   
・たとえ話を2つ


自分の家に飾っていた素敵な置物を、贈り物として渡したら、それを転売されて、儲けが出たよと言われたら、なんだか複雑な気分になるね。
別にあげたものだから、何されても文句言うつもりも無いけど、私の贈り物は売れるものじゃなくて、贈ったという行為に内包されていたのにね。
 
 
「贈られた置物」=「贈ったという行為に内包された情報」の表現
「贈られた置物」=「売れた儲け」

「贈ったという行為に内包された情報」≠「売れた儲け」
 
 
 

広告代理店の社食で、みんなとわいわいと話しているとき、自分の十八番の駄洒落を言ったら、ものすごいウケた。みんなおもしろがって、部内の日常会話の中で大流行。うは、面白い。
CD局のディレクターが、それを耳にして「ピコーン!」とあるクライアントのCMのキャッチコピーにしたら、大ヒット。ディレクターはその年の賞を総なめ。
一字一句変えずに、自分の駄洒落が大ヒット。そりゃ、会社に貢献したと言えばしただろうけど、そんなつもりで言ったんじゃないじゃん。
部内のみんなは、自分が最初に言った駄洒落だって知ってるじゃん。あんなに喜んで使ってたのに、私が訴えるっていったら、「無理じゃない?」とか言われるし。なんだか腹がたってきた。
 
 
部内での流行 許容=自分を知っている=自分に対する評価であるというhonor
社外での流行 複雑=自分が発信したものだと知らない=他人にhonorをとられた気分→怒り
 
発話後の文言はどこまで発話本人に帰属するのか。
どうして自分の発言ではないと思われると腹が立つのか。
その発言から発生した「儲け」と、その怒りは関係があるのか。
 
 
 
特に、クリエイティビティという言葉の魔法が吹きかかっている分野(美術とか)に関して言えば、もはや、「私は(何か)を作ったぞ」という権利が存在し、その権利が誰かに帰属するということ、及び何かを作る事がhonorであるという前提は、実は幻想であると公言していくべきなのかもしれないなぁと思う。(そうすれば、資本主義は崩壊するけれど、美術周辺などのささいな輪くらいならまあいいじゃないか と渦中の自分が言ってみる)
 
双方、どちらかを認めてどちらかを認めていないのかもしれない。
 
しかし、だからといって、
全ての情報(形態/文脈 等)そしてメディアは、
使い始めた(と思われる、そう主張する)人、
そしてそれに(二次的 三次的)に触れた人
ともども、等しく使用することのできる権利は発生してしかるべきだ。
そうじゃないとバランスが保てない。
別に、分け与えよ!とか思っている訳ではなく、ニヒルな気分でもなく、ただ単に、全てに対して開けていると仮定すれば、そうするのが一番自然な気がする。
 
 

この文章って、自分の首を絞めているのかなぁ?とちょっと反省しつつ、投げちゃえ。
あ、そうか、教育という場の贈与にはまだ可能性があると思っているんだな。