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第千五十二夜

栗原亨『廃墟の歩き方』1・2
2002・2003 イーストプレス
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1052.html





これまで廃墟が嫌いな写真家に出会ったことがないといっていい。写真家たちはどうして「現在を失った現在」を写真にしたいと思うのだろうか。廃墟や廃校が懐かしいからなのか。たんに珍しいものだからなのか。それとも名状しがたい寓意のようなものを表象しているからなのか。

確かに。私も廃墟を見ると興奮しカメラを取り出してしまう。何故だ。


・廃墟を感じる作品や作家

キリコやデルヴォーは廃墟を描いたわけではない。詳しく調べたわけではないけれど、廃墟など一度も描いてないだろう。キリコはどちらかといえば未来都市の静寂に光と影だけを浮き上がらせているのだし、デルヴォーはそれに比していえば終末都市の終着駅に電気の永劫を告げていただけなのである。それなのにそこには廃墟性がある。



タルコフスキーが示した廃墟的感覚

廃墟とは「時間の永遠」をあらわすためのメタフォリカルな“実在の代名詞”のことだったのである。

廃墟を感じさせるためには映像文法が必要だそうだ。それが得意な作家が挙げられている。


・はい出ましたピラネージ

ピラネージが1750年代の10年間にたてつづけに刊行した3冊の稠密な版画集『ローマの古代遺跡』『古代ローマの壮麗と建築』『古代ローマのカンポ・マルツィオ』は、当時のローマの都市景観を克明に再現させたみごとな建築画集であったにもかかわらず、人々はそこに「華麗な廃墟」を感じてしまったのだった。

ただただ古い建物だから廃墟を感じるという訳ではなさそうだ。
『そこには「ピクチャレスク」というものが加わる必要があった』
『“そこ”や“それ”が廃墟に見えるには、“そこ”や“それ”をピクチャレスクにすることなのである。』


・ピクチャレスク
http://ja.wikipedia.org/wiki/ピクチュアレスク
http://www.dnp.co.jp/artscape/reference/artwords/k_t/picturesque.html


廃墟感覚の由来について、よくわかりました。そうか、ピクチュアレスクか。