小西甚一『日本文学史』
1953弘文堂・1993講談社学術文庫
◆http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1049.html
白秋→本書という流れは「雅俗」というキーワードか。
小西甚一の魅力はこう書かれている。
情報圧縮をして日本文学史を書いても、そのスジとカマエとハコビを一糸も乱さない書き方はあったのである。
ーーーーーー
総じて小西甚一の見方の真骨頂は刀つかいの芸当にあるだけではなく、ぼくの見るところ、おそらくは、"structure"(筋あい)と"texture"(肌あい)とを同時に見抜く目をもっていること、それをいささか構造主義的ともいうべき適確な言葉にするロゴスをもっているということ、そこらへんにあるように思えた。ストラクチュアを見ることがテクスチュアの縦糸であり、テクスチュアを読むことがストラクチュアの横糸なのだ。この「筋あい」と「肌あい」を重ねられる人が稀なのである。
「雅俗」について。
古代では日本に特有の「俗」があらわれ、中世に「雅」が覆って「俗」が浮かび上がれず、近世には別種の「俗」が登場して、近代に向かってそこに「雅」が引きこまれていった。
だいたいはそういうことであるのだが、それをやや詳しくみると、古代ではたとえば、はやくも「個人」があったというのである。ただしその個人は表現者の側になく、表現される側に出た。その表現される個人を、共同思考あるいは共同感情としての歌が追っていく。
ひえっ、来ましたよ、読者論に関わる話だ。
「完成」ー「雅」、「無限」ー「俗」 どちらも分類しないで扱う「雅俗」
こういう分類で見返すとどうなるかちょっと考えてみようと思う。