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第千十四夜

ジャン・バーニー『エットーレ・ソットサス
1994 鹿島出版会
Jan Burney : Ettore Sottsas 1991  高島平吾訳
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1014.html





Ettore Sottsass作品集はうちの店にもいくつか置いてあって、いっつも欲しいなー買おうかなー、とぐだぐだしているうちに一年たってしまった。
今回の千夜千冊は、私にとって、示唆深いものでした。特にここ。

ひとつは、「いいデザインというものは月に行く可能性のようなものだ」というもの、これはいい言葉だ。ここには「その存在」がそこにあるだけで何か名状しがたいメッセージが一斉に放たれるデザインを志向したいという意味である。まさに月とはそういう「その存在」だ。

「デザインに対して唯一配慮されるべきことは、儀式の進行を促進できるオブジェをつくろうとすることです。すなわち、もろく、はかなく、不合理であやうい日々の状態のなかで、ふと凝縮できる瞬間をもたらすことができるような移行をおこすこと、それがデザインなのです」

ああ、こんな完結に私の修論のテーマをまとめた文章はないなぁー。と(苦笑)。
異化をもたらす月のようなプロダクト。


もうちょっと突き詰めないといけないのかもしれない。今は日常のことにかまけてちょっとしか考えてない。
いけないなぁ。と反省しました。修論終わって一年。反省できたということは、ようやく自分が何をしたのかが客体化できたところなのかもしれない。


あと、ちょこっとクギをさすセイゴオ先生のおせっかいもピンナップしておきます。

いま、たとえば村上隆のアートを前にして、これにインドや折口信夫や縄文を対置できるアーティストなど日本にいない。村上を無視するか、あるいは勝手に別のことをするかだけである。しかしソットサスなら村上の前に、ちっぽけなピンクの銅鐸を置いてみせてニコッと笑うにちがいない。村上隆を打倒したいなら、村上のわかる文脈で村上の根拠を奪わなければならないのである。

私は、相対する気分にはならないのでした。日本という文脈にいないようにふるまうことがいかにポリティカルなのかを知りながらも、なるべく触れないようにしてます。それにしては、諦観と怒りで心乱されてますが。おほほ。
情報を仕入れすぎなのかもしれない。